金色の記憶No,4
ラジオ作り6 · 10日 1月 2022
私のラジオ作りもいよいよ最終章になります。芸大受験に失敗すると、高校の先輩たちの後を追うように、東京のすいどーばた美術学院に通うことになった。下宿先も先輩が借りていた部屋をそのまま引き継いでかりることになった。研究所に近かったこともあり、5,6人の先輩たちやほかの友達のたまり場のようになっていた。1階が大家で2階に6部屋ぐらいあっただろうか、鍵のない部屋だったので、私がいない時でもしょっちゅう誰かが入ってきていたようだ。田舎からレシーバーとアンプ付きのポータブルプレーヤーを送ってもらった。スピーカーだけは秋葉原の電気街でコーラルの20cmぐらいのを買ってきて小さめのバスレフ型を作った。とりあえず1個作ってモノラルで聴いていた。レコードは田舎から持ってきた、ブラームスの交響曲4番やシェーンベルクの「浄夜」などをよく聴いていた。ある日、研究所から帰ってみると部屋の様子がなんだか妙に変わっていた。私のレシーバー・アンプ一体型のポータブルプレーヤーがなくなっており、代わりに真空管むき出しのアンプだろうか、それと小さなポータブルプレーヤーに置き換わっていた。先輩たちのうちの誰かが取り替えたんだろう、持ち逃げされたままよりは、代わりを置いていってくれただけでも良かったと考えよう。代わりのプレーヤーでレコードをかけて聴いてみた。高音が少しキーキーなる感じがするが、案外いい音だったので、まいいかと、特に真空管式のアンプは古臭い感じがまた良かった、もともと私は真空管アンプの方が好きだったのでむしろこっちでよかったかも。さて研究所での浪人時代の1年目も、だいぶ慣れてきたころ、先輩たちを訪ねて出かけた。場所は福生の米軍ハウス。私の高校の先輩と他校の先輩4,5人でハウスを一軒借りて共同生活をしていた。ちょうど、モデルを呼んできてコスチュームのデッサンをしているところだった。デッサンが終わったころ、別の人がやってきてレコードをかけ始めた。新曲が出たのでみんなで聞こうということらしい。部屋の電気を消して薄暗い中で、音が流れ始めていた。皆黙って、タバコを吸いながら、目をつむったり音源に集中していた。私も興味深く音を追いかけて聴いた。何処かで聞いたことがあるような曲想だ。・・・ピンクフロイド?・・原始心母によく似た感じがしたからだ。あたっていた。この曲はピンクフロイドの「エコーズ」だった。私は「エコーズ」は初めて聴いたが、あのマーラーの時以上に体の中を音が浮遊する感じ,というか私の体が音の中を浮遊する感じを体験したのである。この時から私は、クラシックからプログレッシブロックへとはっきり方向転換していったのを覚えている。そして、ピンクフロイドよりさらに決定的な出会いだったのが、キングクリムゾンなのであった。私の中でクリムゾンの「エピタフ」「宮殿」「ポセイドンのめざめ」「スターレス」はプログレの中でも最高傑作と位置づけているが、50年以上たった今でも変わらぬサウンドに酔いしれるのである。そのサウンドを生み出すのがメロトロンという楽器で、このメロトロンの音の洪水、残響に全身が酔いしれるのである。  完
白の記憶No,49
ラジオ作り5 · 19日 12月 2021
私のラジオ作りは、中3から高校にかけてはほぼ終わっていた。自作のラジオで深夜放送はきくことはあっても、そのころは、もっぱら、兄が買ってきた、アンプとレシーバーが一体となったレコードプレーヤーで、FM放送やレコードを聴いていた。スピーカーは兄と共同で大きなバスレフ型のものを自作した。ラジオよりアンプやスピーカーの方に関心がいくようになっていった。高校に入ったころからだろうか、洋楽やGSに加え、クラシック音楽を聴くようになった。そのきっかけとなったのは、ラジオのFM放送でたまたまきいたクラシック音楽で、その日流れていた音楽がマーラーの交響曲6番「悲劇的」?、楽章が進むにつれ、どんどん音の渦の中に巻き込まれ、体が音の中を彷徨うような不思議な感覚を覚えた。多分次の日かどこかでレコードを買いに行ったのだが、残念ながらマーラーの交響曲6番は、お店になく、仕方なく同じマーラーの交響曲1番「巨人」を買って帰った。早速聴いてみると、ゆったりとのどかな風景が思い浮かんでくるような、牧歌的な曲調で、ちょっと期待外れの感が強くなってきたころに、なんだか眠くなってきたと思ったとたん、突然、雷鳴のような激しい音とともに音が激しくうなりだしてきたのである.あの6番の「悲劇的」の時と同じような、音の中を浮遊するような感覚が再びよみがえってきた。マーラーってすごいな、交響曲ってすごいなとたちまちとりこになってしまった。それからは、クラシック音楽の交響曲を中心にFM放送を聴くようになった。マーラーをはじめベートーベン、チャイコフスキー、ブルックナー、メンデルスゾーン、ショスタコビッチ、いろいろな作曲家の交響曲を聞き漁った末、一番気に入ったのが、ブラームスの交響曲1番。ブラームスの交響曲は、叙情的で繊細、ドラマチックな展開、そして美しい旋律・メロディーが特徴で、4つある交響曲のどれもすきなのだが、やはり、スケールの大きさで1番が1番。というわけで、私の高校時代は洋楽少しとクラシック音楽(交響曲)全盛時代。やがて浪人時代、クラシック音楽から・・・・・プログレ・・・・・・。

黒の記憶No,13
ラジオ作り4 · 02日 10月 2021
 真空管のラジオ作りは中2のころで終わり、その後は真空管を使ったアンプづくりに変わっていった。というのも、ラジオから収集した洋楽や日本のGS(グループサウンズ)のレコードを買ってきてプレーヤーで聞く時に、音を増幅させるために作っていたものだからだ。当時私は、枕元にラジオを置いて深夜放送を聞きながら、ロックなどの洋楽や日本のGSの新曲がでてくるのをわくわくしながらまっていた。その中心にあった番組こそがオールナイトニッポンであった。イトイゴロー,タカサキイチロウ、タカシマヒデタケ、サイトウアンコウ等のDJ達の話術も楽しかったが、やはり初めて聞くミュージシャンやグループの曲、好きなグループの新曲が流れるときは期待感がいっぱいで、ドキドキわくわくしたものだ。1968年~1969年の間でもオールナイトニッポンから感動的な出会いがあった曲がたくさんある。モンキーズの「素敵なバレリ」、カウシルズ「雨に消えた初恋」、タートルズ「エリノア」クラシックスフォー「ストーミー」、シルビーバルタン「想い出のマリッツア」、GSでは、オックス「ガールフレンド」、パープルシャドウズ「小さなスナック」、ザ、スィングウエスト「涙のひとしずく」、モコ ビーバー オリーブ「海の底で歌う歌」ほかにも、由紀さおり「夜明けのスキャット」等、一発でお気に入り、レコードを買いに行ったものだ。 そのころ買ったレコードの中になぜか、ムーディーブルースの「キャンドルオブライフ」というのが残っている。ムーディーブルースといえば数年後に私が大好きなった、プログレッシブロックの大御所的な存在のグループ。「サテンの夜」などのLPレコードを今でも聞くほど好きなグループであるが、先見の明というか、出会うべきして出会った、運命的な曲の一つだった。そのようにして、私の中学生時代は、寝床で、オールナイトニッポンを聞きながら、受験勉強もやるという、いかにも健康に悪そうな生活をしていたようだ。時々、セイヤング等、他の局の番組のことを聞いたことを覚えているので3時はまわっていた。そうとうな睡眠不足だったに違いない。
黒の記憶No,2
ラジオ作り3 · 06日 9月 2021
 私のラジオ作りは、中学生になってからも続くのだが、並3球ラジオ、5球スーパーラジオ、6BM8を使ったアンプ等を繰り返し作っていたように思う。並3球でも、12Fを使ったり、5MK9だったり、大きさや型が違う種類の組み合わせのものがあった。ST管とかmT管とか言っていた。土台になるシャーシーに、真空管のソケットを取り付ける穴をあけるのが大変だった。まず、ハンドドリルで1cmくらいの穴をあけ、その穴にテーパーリーマを差し込んで回して穴を大きくしていくのだが、結構力仕事で5,6個あけるのに一日はかけていたと思う。確かに大変な作業ではあったが楽しかった記憶しか残っていない。シャーシーの穴あけが終わったら、真空管のソケットを付け、いよいよ半田付けの開始だ。あとは、スピーカーから洋楽が聞こえてくるまで、時を忘れて組み立て続ける日々であった。  ほどなくして、ラジオ雑誌の中身が、真空管式ラジオから、トランジスタラジオに一気に変わっていってしまった。確かにトランジスタラジオは、コンパクトで見た目もカッコよかったが、いざ組み立てるとなると、プリント基板に小さなトランジスタや抵抗などをはんだ付けするだけじゃん。やっぱり、真空管じゃないとだめだということで、トランジスタラジオの組み立てには、全く関心が持てなかった。  ラジオの回路について勉強しようと通信教育書を数か月試みてみたが、計算式等が難しすぎてすぐにお手上げ、中学ではまだ無理だったかな。それでも、中学時代にラジオ作りの経験が一度だけ役に立ったことがある。それは、中三の2学期の期末試験の時、技術家庭の試験問題に、なんと、並3球ラジオの回路図を書きなさいという問題がでたのである。これがテスト問題になるなんて思ってもみなかったが、その時の私は目をつむっていても書けるぐらいで、呆然としている周りの友達をよそに、自信満々で解答を書き終えたのである。

白の記憶No,18
ラジオ作り2 · 28日 8月 2021
5球スーパーラジオに使った真空管を使った作品
白の記憶No,24
ラジオ作り · 13日 8月 2021
ラジオ作り